移転価格
移転価格税制
第9章
移転価格税制の理解
移転価格税制(Transfer Pricing Taxation)は、企業の国外関連者(親子会社・兄弟会社のような資本関係、役員の派遣のような人的関係にある外国会社)との取引価格を、独立の第三者との間で行われる取引価格(独立企業間価格:Arm's Length Price)で計算しなおすことにより、国外関連者との取引を通じて得た所得が他国へ移転するのを防止し、適正な国際課税の実現を図ることを目的とする税制です。
シンガポールを含む主要各国では、関連者取引価格をOECD(経済協力開発機構)が定めた原則(独立企業間原則)に基づき、類似の非関連者取引において成立したであろう価格と同じレベルで設定することを原則としています。移転価格税制で注意しなくてはならない点は、納税者に租税回避の意図があるか否かにかかわらず課税されるということです。近年の移転価格税制はあらゆる関連者間取引(有形資産取引、無形資産取引、役務提供取引、金融取引等)を対象としているため、企業は常に移転価格リスクを検討する必要があります。
たとえば、独立企業間価格より低い価格で日本の親会社がシンガポールの子会社に輸出した場合、日本企業の利益は減少します。シンガポール子会社(国外関連者)は外部販売価格が通常一定であるため、その商品を第三者から輸入して販売した場合より利益が増えます。このように、価格を変動させるだけで、一方の国で課税される所得が減少します。そこで所得の他国への移転を防止し、適正な国際課税を実現するために各国で移転価格税制が制度化されています。
シンガポールは法人税率17%という低税率国として知られているため、日本の親会社からシンガポールの子会社へ所得を移転することで日本の法人税負担を軽減しようとする動機が生じやすい環境にあります。このため、シンガポールの内国歳入庁(IRAS:Inland Revenue Authority of Singapore)は近年、移転価格税制の執行を一層強化する姿勢を示しています。
各国の税務当局が移転価格税制上問題となり得る取引を認識した場合、当該企業に対して移転価格調査が実施されます。その企業は対応と解決に多大なコストと時間を要することになります。最終的に更正処分を受けることとなった場合は、追徴税額・延滞税に加え、二重課税リスクを被ることになり、経営成績に大きな損失が生じることとなりかねません。
シンガポール移転価格税制の変遷
シンガポールでは、2006年2月23日にIRASが初の移転価格ガイドラインを公表しました。このガイドラインでは、OECDの独立企業間原則に基づいた移転価格の考え方が示され、関連者間取引に係る文書化が推奨されました。シンガポールが国際的な金融・ビジネスハブとしての地位を確立しつつある時期と重なり、多国籍企業の誘致と適正な課税のバランスを取るための制度整備として位置付けられました。
2009年には、グループ内役務提供に関するガイドライン、グループ内ローンに係るガイドラインが相次いで公表されました。これによりグループ内のサービス提供や資金融通に関する独立企業間価格の算定方法が明確化されました。
2012年には事前確認制度(APA:Advance Pricing Arrangement)に係るガイドラインが公表されました。APAは企業と税務当局が事前に移転価格算定方法を合意する制度であり、移転価格課税リスクの予防的管理手段として機能します。
2015年1月には、それまで個別に発行されていた4つのガイドライン(移転価格、グループ内役務提供、グループ内ローン、APA)を一本化した「移転価格ガイドライン第2版(e-Tax Guide: Transfer Pricing Guidelines Second Edition)」が公表・施行されました。この改訂で大きく変わった点は、それまで推奨にとどめていた移転価格文書の作成が義務化されたことです。その後、毎年改訂が行われ、文書化要件および調査手続きの整備が進められています。
2016年には関連者間取引開示フォーム(Related Party Transactions Form)が導入されました。これにより、賦課年度2018年から、原則として全てのシンガポール居住法人は、法人税申告書(Form C)の提出と同時に関連者間取引を報告するフォームの提出が求められるようになりました。
2018年賦課年度からは、移転価格文書化が法令上も義務化され、違反した場合の罰則規定(罰金・サーチャージ)が明確化されました。さらに、OECD/G20のBEPS(税源浸食と利益移転)プロジェクトへの対応として、国別報告書(CbCR:Country-by-Country Report)制度も導入されました。
2024年6月には最新版のガイドライン第7版(e-Tax Guide: Transfer Pricing Guidelines Seventh Edition)が公表され、従来は移転価格調整の通知前に行われていた納税者との事前協議が省略可能となりました。これにより、IRASは調査後、協議なしに移転価格調整および加算税の通知を行い、クロージングレターを発行できることが明記され、調査プロセスのさらなる厳格化の意向が示されました。
年 | 主な出来事・制度整備 |
2006年 | IRASが初の移転価格ガイドライン公表(文書化の推奨) |
2009年 | グループ内役務提供・ローンに関するガイドライン公表 |
2012年 | 事前確認制度(APA)ガイドライン公表 |
2015年 | 4つのガイドラインを統合した第2版公表。文書化が義務化 |
2016年 | 関連者間取引開示フォーム(RPTフォーム)導入 |
2018年 | 移転価格文書化の法令化、罰則規定の明確化。CbCR制度導入 |
2024年 | ガイドライン第7版公表。事前協議なしの調整通知が可能に |
移転価格税制に係る個別規定
対象者(対象法人)の範囲
シンガポールの移転価格税制の適用対象となる取引は、シンガポール居住企業と関連者との取引です。関連者は以下のように定義されています。
関連者とは、以下のいずれかの関係に該当する企業・組織・個人です。
- 直接的または間接的な支配関係がある企業(例:一方が他方の株式の50%超を保有する場合など)
- 共通の者に直接的または間接的に支配されている企業(兄弟会社関係)
- 上記以外であっても、実質的に支配または影響を与え合っている関係
シンガポールの移転価格ガイドラインでは、関連者の判定に際して形式的な持分比率だけでなく、実質的な支配関係も考慮されます。したがって、直接の資本関係がなくとも、経営上の影響力や役員の派遣関係がある場合は関連者に該当する可能性があります。
適用対象となる関連者取引の類型は以下のとおりです。
- 有形資産の売買・譲渡・使用
- 無形資産の譲渡・使用(ロイヤリティ等)
- 役務提供(グループ内サービス等)
- 金融取引(グループ内ローン、保証等)
文書化規定の概要
シンガポールの移転価格文書化制度は、OECDのBEPS行動計画13に対応する形で、マスターファイル・ローカルファイル・国別報告書(CbCR)の3層構造を採用しています。文書はすべて英語で作成することが認められています。
❶ ローカルファイル
ローカルファイルとは、各関連者との取引について詳細な事実説明と移転価格の妥当性を記載した文書です。シンガポール企業の事業内容・組織・機能・リスク分析、主要な関連者間取引の詳細、移転価格算定根拠が含まれます。
法人税申告書の申告期限(事業年度終了日の属する年の翌年11月末)までに作成し、5年間保存する義務があります。IRASからの要請があった場合は30日以内に提出しなければなりません。(なお、総収入が1千万シンガポールドル以下の企業は適用除外)
以下の取引金額基準のいずれかを超える関連者間取引を行っている場合、作成義務が生じます。
- 棚卸資産(仕入または販売)取引 1,500万シンガポールドル超
- 金銭貸借取引 1,500万シンガポールドル超
- その他の取引(サービス取引、ロイヤリティ、賃貸、保証等の各カテゴリー単位) 100万シンガポールドル超
ただし、以下の取引については文書化義務が免除されます。
- シンガポール国内の関連者間取引(同じ法人税率が適用される場合)
- シンガポール国内でのローン取引(貸金業者が貸手の場合を除く)
- 指標金利マージンを適用したローン取引(1,500万シンガポールドル超のものを除く)
- ルーティンサポートサービスで5%コストマークアップを採用している場合
- APAが取得されている取引
❷ マスターファイル
マスターファイルとは、多国籍企業グループ全体の事業・組織・財務情報を記載したグループ全体の概況説明書です。
法人税申告書の申告期限までに作成・保存し、5年間保存する義務があります。提出はIRASからの要請後30日以内です。
以下の要件に該当する場合、作成義務が生じます。
- シンガポール居住法人が関連者間取引を行っており、かつ当該法人が属するグループがすでにマスターファイルを作成している場合
- 前事業年度の関連者間取引総額が1億シンガポールドルを超える場合
マスターファイルの記載内容には以下が含まれます。
- グループの組織構造・経営戦略・事業内容
- グループ内での機能・リスク・資産の配分状況
- 主要な無形資産および研究開発活動の概況
- グループ内金融活動の概況
- グループの財務・税務状況
❸ CbCR(国別報告書)
CbCRとはCountry-by-Country Reportの略で、国別報告書の意味です。OECDのBEPS行動計画13に基づき、多国籍企業グループの各国別の財務情報・税務情報を開示するものです。
事業年度終了日から12か月以内に提出する義務があります。各国の税務当局間で情報が共有されるため、海外の税務当局が入手できる情報量が大幅に増加します。
以下の要件に該当する場合、提出義務が生じます。
- シンガポール居住法人である多国籍企業グループの最終持株会社で、かつ
- 前年度の連結売上高が11億2,500万シンガポールドルを超える場合
- また、少なくとも1か国以上で海外事業を行っている場合
記載事項はOECDの規定と一致しており、主に以下の情報が含まれます。
- 多国籍企業グループ名
- 各国別の事業活動の内容
- 各国別の資本金・従業員数
- 各国別の収入(関連者間・非関連者間別)
- 各国別の税引き前利益
- 各国別の法人税額(納付額・発生額)
なお、日本企業のシンガポール子会社はCbCRの提出対象外となります(提出義務はシンガポール最終持株会社が対象です)。
シンガポール税法における価格算定方法
シンガポールの移転価格ガイドラインが定める移転価格算定方法として、以下の5つの方法が認められています。優先適用の規定は特になく、各方法の特徴を理解した上で、個々の取引に最も適した方法を選択することが求められます。
独立価格比準法(CUP法)...❶
独立価格比準法(Comparable Uncontrolled Price Method:CUP法)とは、非関連者間で行われる関連者取引と同等または類似の業務活動に対して適用される価格を、独立企業間価格とみなす方法です。
関連者取引と同等または類似した非関連者取引が存在する場合や、両者の差異を信頼性をもって調整できる場合に有効です。ただし実務上、比較対象となり得る非関連者間取引データの入手が困難なため、CUP法による比較はほとんど行われません。
【例】
関連者間の製品販売価格がkg当たり12ドルであるのに対し、非関連者間取引での同等製品の価格がkg当たり15ドルである場合、差額3ドルが独立企業間価格から乖離した金額となり、その分の所得が国外に移転したとみなされます。
再販売価格基準法(RP法)...❷
再販売価格基準法(Resale Price Method:RP法)とは、関連者から購入した商品を非関連者に再販売する際の価格から、比較可能な非関連者取引における売上総利益率を控除した後の金額を、関連者の商品購入の独立企業間価格とする方法です。
関連者間取引と非関連者間取引の機能・リスク・契約条件の差異を考察し、大きな差異があれば売上総利益率を合理的に調整する必要があります。再販売価格基準法は通常、商品に対して外型・性能・構造の変更や商標の取替等の実質的な付加価値加工を行わない単純な売買に適用されます。
【例】
比較可能な非関連者取引の売上総利益率が20%である場合、関連者間取引の再販売価格に(1-0.2)を乗じた金額が独立企業間価格となります。この価格と実際の関連者間取引価格の差額分が国外に移転した所得と判断されます。
原価基準法(CP法)...❸
原価基準法(Cost Plus Method:CP法)とは、関連者取引より発生した合理的な原価に比較可能な非関連者取引における売上総利益を加算した金額を、関連者取引の独立企業間価格とする方法です。
関連者間取引と非関連者間取引の機能・リスクおよびコストマークアップ率に影響を与えるその他の要因を考察し、合理的な調整ができない場合は当該方法を採用することができません。原価基準法は通常、有形資産の売買・役務提供・資金融通等の関連者間取引に適用されます。
【例】
比較可能な非関連者取引の売上原価利益率が25%である場合、子会社が購入した原価に1.25を乗じた金額が独立企業間価格となります。この価格と実際の関連者間取引価格の差額分が国外に移転した所得と判断されます。
取引単位営業利益法(TNM法)...❹
取引単位営業利益法(Transactional Net Margin Method:TNM法)とは、比較可能な非関連者取引の利益率指標(営業利益率、資産収益率、トータルコストマークアップ率等)により関連者取引の移転価格を決定する方法です。
関連者間取引と非関連者間取引の機能・リスク・経済環境の差異を考察し、大きな差異があれば当該差異が営業利益に与える影響を合理的に調整する必要があります。TNM法は総利益の水準を比較する再販売価格基準法や原価基準法に比べて、機能とリスクの差異等の影響を受けにくいとされ、シンガポールの実務においても広く採用されています。
TNM法は通常、有形資産の売買・無形資産の使用・役務提供等の関連者間取引に適用されます。
利益分割法(PS法)...❺
利益分割法(Profit Split Method:PS法)とは、企業とその関連者の関連者取引連結利益に対する貢献度に基づき、各関連者に配賦されるべき利益額を計算する方法です。一般利益分割法と残余利益分割法があります。
一般利益分割法は、関連者間取引の各当事者が担う機能・負うリスク・使用する資産に基づき、各自が取得すべき利益を確定する方法です。残余利益分割法は、合算利益から各当事者に配分する通常利益を控除した後の残額(残余利益)を、各当事者の貢献度に基づき配分する方法です。
利益分割法は通常、各当事者の関連者間取引の統合性が高く、かつ各当事者の取引結果を単独で評価することが難しい場合(無形資産の共同開発や高度に統合されたサプライチェーン等)に適用されます。
その他独立企業間原則に合致する方法...❻
シンガポールの移転価格ガイドラインは、上記❶~❺以外にも、独立企業間原則に合致するその他の方法による算定を認めています。
グループ内役務提供(ルーティンサポートサービス)
多国籍企業グループにおいては、親会社や地域統括会社がグループ各社に対してバックオフィス業務・経理・人事・IT・法務等の支援サービスを提供することが一般的です。シンガポールはアジアの地域統括拠点として機能する企業が多く、グループ内役務提供に関するルールは実務上重要な論点となっています。
ルーティンサポートサービスの特則
シンガポールの移転価格ガイドラインでは、「ルーティンサポートサービス」と呼ばれる限定的な定型業務の役務提供について、当該業務を行うに要した直接費用および間接費用に5%のマークアップを加算した金額を収益認識することで、移転価格税制上の適正取引として取り扱う旨が定められています。これにより、対象業務については文書化義務も免除されます。
ただし、ルーティンサポートサービスの対象範囲はバックオフィス業務やアドミニストレーション業務といった限定的な業務に限定されています。これらの範囲を超えた役務提供であると判断された場合には、原則通り、第三者間で同様の取引が行われた際に適用される独立企業間価格に基づく課税所得の計算が必要となります。
グループ内ローン取引の特則
シンガポールでは、1,500万シンガポールドル以下のクロスボーダーのグループ間ローン取引について、IRASが毎年公表する指標金利マージン(Indicative Margin)を参照金利に上乗せして利率を設定した場合、当該ローン取引にかかる移転価格文書の作成が免除されます。
なお、2025年1月1日以降に締結されるシンガポール国内のローン取引については、貸手と借手の双方が貸金業者でない場合に限り(かつ双方がシンガポール居住法人で、同一の法人税率が適用される場合)、文書化義務の免除が認められます。
事前確認制度
事前確認制度(APA:Advance Pricing Arrangement)とは、企業とIRASが、特定期間の関連者間取引に適用する移転価格算定方法について事前に合意し、当該期間の関連者間取引に関わる税務問題を解決する制度です。
APAには、IRASのみと合意する一国間APA(Unilateral APA)と、IRASと相手国の税務当局の両者と合意する二国間APA(Bilateral APA)の2種類があります。Bilateral APAは二重課税の確実な回避が可能ですが、手続きに多大な時間とコストを要します。
事前確認制度の手続
事前確認制度を適用する場合は通常、予備的協議、正式申請、審査・評価、協議・合意、締結・実施の段階を経ます。
❶ 予備的協議
APAの正式な申請を提出する前に、企業とIRASの間でAPAの実行可能性を検討するための予備的協議を行います。この段階では、対象取引の概要・比較可能性分析の方針・適用する移転価格算定方法の候補について非公式に議論します。
❷ 正式申請
予備的協議を経て、企業はAPAの正式な申請書をIRASに提出します。申請書には以下の情報を含める必要があります。
- グループ組織構造・関連者の関係性・関連取引の状況
- 直近の財務諸表・製品・保有財産に関する資料
- 関連者間取引の種類および対象年度
- 機能・リスク・資産の分析
- 移転価格算定方法の分析・業界ベンチマーキング等
- 対象年度の事業の損益予測・事業計画
- 二重課税等の問題への対応方針
❸ 審査・評価
IRASは申請書の内容に基づき、取引の実態・機能・リスク・比較可能性分析・前提条件・価格算定方法・予測利益レンジについて審査と評価を行います。必要に応じて追加資料の提出が求められます。
❹ 協議・合意
IRASは審査・評価を経て、納税者との協議を行い、合意内容のドラフトを作成します。Bilateral APAの場合は、これに加えて相手国の税務当局との相互協議(MAP:Mutual Agreement Procedure)が行われます。
❺ 締結・実施
合意内容を踏まえて正式なAPA協議書が締結されます。APAの有効期間は通常3~5年間とされます。APA期間中は、年次コンプライアンスレポートをIRASに提出し、前提条件に実質的な変化が生じた場合はIRASに速やかに通知する必要があります。
移転価格税制と文書化
関連者間取引開示フォーム(RPTフォーム)
賦課年度2018年(2017年度決算以降)から、原則として全てのシンガポール居住法人は、法人税申告書(Form C)の提出と同時に、関連者間取引報告フォーム(Related Party Transactions Form)の提出が求められています。
以下の金額基準を超える場合にフォームの作成・提出が義務付けられます。
- 損益計算書上の関連者間取引残高合計(経営者報酬・配当を除く)と貸借対照表上の関連者に対するローン・非営業債権債務の年度末残高合計の総和が1,500万シンガポールドルを超える場合
フォームでは、関連者間取引について各取引カテゴリー別に金額の開示が求められます。また、複数の外国関連者と取引を行っている場合は、取引金額上位5社をリストアップすることになっています。
RPTフォームの主な記載事項は以下のとおりです。
項目 | 内容 |
取引の性質 | 有形資産・無形資産・役務・金融等のカテゴリー別取引金額 |
関連者情報 | 関連者の名称・所在地・関係性 |
取引金額 | 各カテゴリー別の受払合計額 |
上位5社 | 取引金額上位5社の外国関連者の詳細 |
移転価格文書 | 移転価格文書の作成有無 |
移転価格文書(ローカルファイル)の内容
移転価格文書(ローカルファイル)は、IRASからの要請を受けた際に独立企業間価格の妥当性を立証するために作成する文書です。移転価格調査においては、この文書を根拠に税務当局と議論を展開することになります。
ローカルファイルには以下の情報を含める必要があります(シンガポール移転価格ガイドラインに基づく)。
- シンガポール企業の事業概要・組織図・経営戦略
- 主要な競合他社の情報
- 関連者間取引の詳細・取引背景(取引の目的・性質・契約条件等)
- 機能・リスク・資産の分析(FAR分析)
- 業界および経済環境の分析
- 比較可能性分析(比較対象企業・取引の選定根拠)
- 適用する移転価格算定方法の選定理由と算定内容
- 移転価格ポリシー
移転価格文書は、関連者間取引が行われた事業年度の法人税申告期限までに作成し、5年間保存する義務があります(事業年度終了から5年または賦課年度から4年のいずれか早い方)。IRASからの要請があった場合は30日以内に提出しなければなりません。
文書化実務においては、比較対象企業の検索(ベンチマーキング分析)等の特殊な分析が必要となることから、外部の移転価格専門家に依頼するケースが多く見られます。
シンガポールにおける移転価格調査
調査に関する規定
シンガポールの移転価格調査は、IRASが公表する移転価格ガイドライン(最新版:第7版、2024年6月公表)に基づいて実施されます。2024年の改訂では「コンサルテーション」という文言が削除され、移転価格「調査」プロセスと明記されるようになり、執行の厳格化が明確に示されました。
調査対象企業は以下の点にも留意する必要があります。
- 四分位法(利益率レンジの下位25%および上位25%を除いた中央50%の範囲)を用いて利益水準を評価し、企業の利益率がレンジの中央値を下回った場合、IRASは移転価格調整を行う可能性があります。
- 税務当局は、公開データおよび非公開データの両方を独立企業間価格の評価に利用することができます。
- 関連者間において相殺取引がある場合、IRASは取引した総額に還元して比較可能性分析を行います。
調査のプロセス
調査対象の選択
移転価格調査の対象は、以下のような特徴を持つ企業から重点的に選定されます。
- 関連者間取引の金額が比較的大きい、または関連者間取引の類型が多い企業
- 連続して赤字状態にある企業、または利益が微少な企業、利益の変動が著しい企業
- 同業界の平均的な利益水準より利益が低い企業
- 担う機能・負担するリスクと利益水準が著しく乖離している企業
- 低税率国にある関連者との取引が多い企業
- 移転価格文書を作成していない企業、または関連者間取引の申告を適切に行っていない企業
- 商流の変更や事業の機能・リスク・資産の実質的な変更が行われた企業
- 他国税務当局との情報交換を通じて選定されるケースも増加しています
調査の実施
IRASは、選定された調査対象企業に対し書面による照会(質問状)または実地調査を実施します。質問状では国外関連取引に係る内容確認・損金の妥当性・移転価格文書の提出要請が含まれるケースが増加しています。
移転価格調査の結果、独立企業間原則に則っていると判断された場合は調査が終了します。一方、独立企業間価格に則っておらず課税所得が少ないと判断された場合は、移転価格調整が行われます。
移転価格調整後の手続き
2024年のガイドライン改訂により、IRASは調査後、納税者との事前協議なしに移転価格調整および加算税(サーチャージ)の通知を行い、クロージングレターを発行することができるようになりました。クロージングレターには、移転価格の妥当性・移転価格文書の適切性・移転価格調整に対するIRASの見解が記載されます。
罰則規定
以下の場合に1万シンガポールドル以下の罰金が課される可能性があります。
- 申告期限までに移転価格文書を作成しなかった場合
- 移転価格文書を5年間保存しなかった場合
- IRASからの要求から30日以内に移転価格文書を提出しなかった場合
- 虚偽または誤解を招く移転価格文書を作成した場合
また、移転価格調整額に対して5%の加算税(サーチャージ)が課されます。これは追徴課税額に対する割増しであり、企業にとって実質的なコスト増加となります。
違反内容 | ペナルティ |
移転価格文書の未作成・保存義務違反 | 1万シンガポールドル以下の罰金 |
IRASからの要請後30日以内の未提出 | 1万シンガポールドル以下の罰金 |
虚偽・誤解を招く文書の作成 | 1万シンガポールドル以下の罰金 |
移転価格調整が生じた場合 | 調整額の5%のサーチャージ(加算税) |
救済措置
移転価格課税の救済措置には、相互協議(MAP:Mutual Agreement Procedure)とその結果としての更正額の減額や対応的調整があります。相互協議は国際的な二重課税を排除することを目的とした手続であり、権限のある税務当局間で行われます。
日本とシンガポールとの間では、日星租税条約に定める相互協議規定に基づき、日本の国税庁とシンガポールのIRASとの間で相互協議が行われます。
対応的調整とは、一方の国で移転価格税制により更正指示を受けた金額に相当する金額を他方の課税所得から減額することにより、国際的な二重課税を排除するものです。適用するためには相互協議において両当局が合意する必要があります。
移転価格事例
本節では、シンガポールにおける移転価格税制について具体的な事例を挙げて説明します。
■ 事例1 地域統括会社と製造子会社間の移転価格
シンガポールに設立された地域統括会社A社は、日本の親会社B社グループの製品をアジア各地の製造子会社から調達し、第三者顧客に販売していました。製造子会社C社(東南アジア所在)は、A社との関連者間取引のみで収益の大半を得ていました。C社の売上総利益率は3年連続で1%未満と極めて低い水準でした。IRASはA社に対して移転価格に関する質問状を送付し、C社との取引価格の合理性について説明を求めました。
論点:製造子会社の適正利益水準
シンガポールのIRASおよびC社所在国の税務当局は、C社が単純な製造機能のみを担い、研究開発・販売・マーケティング等のリスクを負っていないにもかかわらず、経常的に低い利益率にとどまっている点に着目しました。
検証
この事例のポイントは、関連者向け製造のみを行う単純機能会社(いわゆるコントラクトマニュファクチャラー)は、市場リスクを負わない代わりに、安定した一定の利益(コスト+マークアップ)を得るべきという考え方です。もっとも、IRASが課税管轄を有するのはシンガポール法人であるA社です。本件では、A社がC社から調達する価格が高すぎる結果、A社のシンガポールでの利益が不当に圧縮されているとIRASが認定すれば、A社が移転価格調整・追徴課税を受けることになります(C社の低い利益自体を是正・課税する権限は、C社所在国の税務当局にあります)。IRASは業界の類似企業の利益水準をベンチマークとして比較分析を行います。製造子会社との取引については、当該子会社の機能・リスクに見合った利益水準を確保する価格設定が必要です。
■ 事例2 知的財産のロイヤリティ取引
日本の製造親会社D社は、自社で開発した技術をシンガポールの販売子会社E社に使用させ、売上高に対して一定割合のロイヤリティを徴収していました。E社の営業利益率は同業他社と比較して著しく低い水準でした。IRASはロイヤリティ料率の合理性について調査を実施しました。
論点:ロイヤリティ料率の独立企業間価格
D社が設定したロイヤリティ料率は業界標準と比べて高水準であり、E社のマーケティング活動・現地営業力による価値貢献が考慮されていないとIRASは判断しました。特に、E社が現地市場を開拓するために多大なマーケティング費用を投下していたにもかかわらず、その貢献分がロイヤリティ料率に反映されていないことが問題視されました。
検証
この事例では、無形資産の価値評価において、技術の提供者側(D社)だけでなく、その活用・展開を担う受益者側(E社)の貢献も適切に評価することが重要です。シンガポールの移転価格ガイドラインは、無形資産に係るOECDの最新ガイダンスを反映しており、付加価値を生み出す主体に応じた利益配分の重要性が強調されています。
■ 事例3 グループ内役務提供の対価
シンガポールの地域統括会社F社は、アジア各国の子会社に対して経理・法務・IT・人事等の管理サービスを提供していました。サービスの対価については、コストのみを請求し、マークアップを付加していませんでした。IRASはF社に対してグループ内サービスの料金設定の合理性について説明を求めました。
論点:コストオンリー方式の是非
IRASは、ルーティンサポートサービスの範囲に限定されていない高付加価値なサービス(戦略的意思決定支援、専門的なアドバイザリー等)についても、コストのみを回収することは独立企業間原則に反すると指摘しました。独立した第三者間であれば、サービスに応じた利益(マークアップ)を上乗せした価格を設定するのが通常であるためです。
検証
グループ内役務提供においては、バックオフィス業務等の「ルーティンサポートサービス」(5%マークアップ適用可)と、それ以外の高付加価値サービスを明確に区別することが重要です。高付加価値サービスについては、業界標準の利益率を用いた独立企業間価格の算定が必要であり、サービスの性格・内容・受益者の利益に応じた適正な対価設定が求められます。
■ 事例4 資金調達取引と借入の独立企業間水準
日本の親会社G社は、シンガポールの子会社H社に対して大規模な貸付を行っていました。H社の負債資本比率は著しく高く、支払利息が多額に計上された結果、シンガポールでの課税所得が大幅に圧縮されていました。IRASはH社に対して貸付金利の合理性と借入水準(Debt Capacity)の妥当性について調査を行いました。
論点1:金利の独立企業間価格
IRASは、G社がH社に設定した貸付金利がIRASの公表する指標金利マージンと大きく乖離しているとして、独立企業間原則に反すると判断しました。
論点2:過度な借入(Debt Capacityの検証)
H社の高い負債比率は、独立した第三者からの借入条件とは大きく異なるものであり、課税所得の圧縮を目的とした恣意的な資本構成と判断される可能性がありました。
検証
グループ内の資金融通においては、IRASが毎年公表する指標金利マージンを参考に適正な金利を設定することが重要です。また、資本構成についても独立した第三者間の水準を参照し、課税所得の圧縮を目的とした過度な借入比率は独立企業間原則に反するものとして認定されるリスクがあります。資金調達取引についても、移転価格リスクを適切に管理する観点から、移転価格文書の作成が強く推奨されます。
【2026年版 追記:シンガポールに過少資本税制は存在しません】シンガポールには、日本のような法定の過少資本税制(Thin Capitalization Rules:負債資本比率に基づく支払利息の損金否認)はありません。IRASは一般的な移転価格の枠組みの中で、借入額や金利が独立企業間の水準にあるか(金利の独立企業間価格、過度な借入の有無=Debt Capacityの検証)を判断します。本事例の「過少資本」は、この移転価格上の検証を指すものとして理解してください。
■ 事例5 事業再編と機能・リスクの移転
日本の多国籍企業グループは、アジア太平洋地域の事業再編の一環として、日本の製造子会社がこれまで担っていた販売・マーケティング機能をシンガポールの地域統括会社に移転しました。この再編に際し、顧客リストや販売ノウハウ等の無形資産を無償で移転したことについて、IRASは問題があると判断しました。
論点:機能・リスク・資産移転の対価
機能・リスク・資産(特に無形資産)の国際移転が行われた場合、移転される資産の市場価値に基づく適正な対価の受取が必要です。IRASは、顧客リストや販売ノウハウ等のマーケティング無形資産は経済的価値を有するものであり、その無償移転は独立企業間原則に反すると判断しました。
検証
事業再編を実施する際には、機能・リスク・資産の移転に伴う移転価格上の問題を事前に検討することが不可欠です。特に無形資産の価値評価は複雑であり、DCF法(割引キャッシュフロー法)等を用いた専門的な分析が必要となります。シンガポールでは事業再編に伴う移転価格問題が増加しており、再編前に専門家に相談することが強く推奨されます。
参考文献
- IRAS (Inland Revenue Authority of Singapore), e-Tax Guide: Transfer Pricing Guidelines (Seventh Edition), June 2024
- JETRO シンガポール事務所「シンガポール税制の概要」(2024年版)
- 経済産業省「各国・地域の税制概要とホットトピックス シンガポール」(令和5年度)
- 押方移転価格会計事務所「シンガポールの移転価格税制」
- 青山綜合会計事務所「シンガポール移転価格税制~移転価格文書の要件について~」
- PwC Japan「アジア10か国移転価格税制の執行状況」
- OECD 移転価格ガイドライン(Transfer Pricing Guidelines for Multinational Enterprises and Tax Administrations)
